はちのじ

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IQ高め女子のちょっとニッチな雑記

19歳で家出したわたしが考える『幸福な家族』

こんにちは、ハチヤユーカです。

 

プロフィールでサラッと書いているのですが、わたしは大学2年次のときに家出しています。

理由を端的に言うと「『家族』の中で生きていくことが息苦しくなったから」です。

『家族』を鎖のように感じていた

父親も、母親も、弟も、個人単位で見ればなんだかんだみんな好きでした。

ただ『家族』というちいさな社会に適応することを求められると、途端に自分の役割を重たく感じてしまうようになりました。

やがてその重さに耐え切れなくなり、わたしは逃げることを選びました。

 

『家族』は正しく機能すれば、心身ともにすこやかに過ごすための基盤として大きな役割を果たしてくれるのでしょう。

わたしの家族はいわゆる『機能不全家族』だったのだと、今になればわかります。

 

そんな家庭で育ったわたしにも、理想とする幸福な家族のイメージがあります。

それを一言で言い表すとしたら『個々の自由を認め、尊重できる家族』といったところでしょうか。

 

幸福な家族とは?

そもそも幸福な家族って、いったいどんなものなのでしょう。

  • 全員で同じ時間を過ごし、喜怒哀楽をともに分かち合う?
  • 家族の受験や就職といった大きなイベントには一致団結して立ち向かう?
  • 長い休みのときに全員で旅行し、思い出をたくさんつくる?

いくつか思い浮かんでも、心のどこかでそれを「ドラマみたいで嘘くさいな」と感じている自分がいます。

こんな家族で、全員が幸せなわけがない、と。

 

どんなに仲の良い人に対しても、「1人にしてくれよ」と思うときだってあります。

自分の受験や就活に家族を巻き込むことに、プレッシャーや申し訳なさを感じる子どもだってきっといます。

旅行のことは具体例を挙げて後述しますので、このまま読み進めてみてください。

 

もちろん実際にこういった家庭で生まれ育ち、家族愛や幸福に満ち満ちている人を否定するつもりは毛頭ありませんし、その素直な心にはうらやましさすら覚えます。

 

今わたしが思い浮かべた家族のイメージはどれも、全員が何か(時間や感情、思い出など)を共有することを、幸せの象徴としています。

だから、嘘くさいと思えてしまうのかもしれません。

 

家族を構成する人間は、年齢も、経験も、性格も、価値観も、てんでバラバラ。

父親と母親にいたっては、もともとは他人です。

それならば、幸せの感じ方だってひとりひとり違っていて当然ではないでしょうか。

 

みんなが同じように幸せ、なんて夢物語だ

わたしが小学生の頃の話を例に挙げてお話します。

この頃のわたしはまだ、家族といることに楽しさを感じていました。

 

当時は、毎年夏休みに家族全員で軽井沢に旅行していました。

母親の運転する車で軽井沢に着くと、ペンションのチェックインの時間になるまで、駅前のアウトレットモールで買い物をしながら時間をつぶすのがお決まりのコース。

 

わたしは毎年泊まるペンションが好きで、そこの広いお風呂や、豪華な食事、置いてあるボードゲームなんかを楽しみにしていました。

一方、アウトレットモールでは特に欲しいものもなく、いつも退屈していました。

アウトレットとはいえ子どもにとっては高いものばかりでしたから、おこづかいで何かを買えるわけでもありませんし……。

「買い物はいいから早くペンションに行こうよ」と親を急かして、叱られたこともあります。

 

しかし父親は、アウトレットモールでいつまでも楽しそうに服や靴、家電なんかを見ていました。

そんな父親の姿を見て、わたしは「買うわけでもないのによくそんなに長い時間見ていられるな~(それより早くペンションに行こうよ)」と思ったものです。

(今となれば買い物をする楽しさも分かりますが……)

 

母親は軽井沢まで3時間ほど車を運転してきていたうえ、車に乗っていないときはほとんど障害を持った弟の面倒を見ることに追われていました。

わたしはときどき不安になって「お母さん、楽しい?」なんて聞いていました。

本人は「え?楽しいよ!」と言っていましたが、幼心に「お母さんはそれでいいの!?」と思っていました。

 

弟はいつもニコニコしていましたが、どちらかといえばペンションの方が楽しかったんじゃないかな、と思っています。

絵本もおもちゃもありましたし、飽きたり疲れたりしたらすぐに休めますから……。

 

こんなふうに、家族旅行ひとつとっても、楽しみを感じるポイントはそれぞれ違っていたはずです。

 

自分が自由になれば、みんなの自由を尊重できる

わたしは自分の個性を大切にできてこそ、他の人の個性を認める心の余裕ができると考えています。

きっとそれは家族においても一緒なのだと、家を出て、しばらくしてから気づきました。

  

昔のわたしは、何かにつけて「家族だから」という思考を停止させるワードに操られ、個を隠して『家族のために』動いていました。

このワードは周りから言われることもありましたし、自分に言い聞かせていたこともあります。

今思うと、まるで呪いです。

 

本当は、その呪いをどうしようもなく苦しく感じていました。

『しっかり者のお姉ちゃん』という役割ではなく、わたし個人を見てほしかった。

 

本当は全然しっかりしていないわたしをどうしたら認めてもらえるんだろう、と何度も悩みました。

それでも答えを出せずに家族が望む姿を演じ続け、限界が来てしまったのです。

 

まだその予定はありませんが、もしこれから生きていく中で新たな家庭を持てたときには、二度と同じ過ちは繰り返すまい、と今から強く決心しています。

もう、誰にもわたしのように個を封じる生き方はしてほしくないし、わたしもしたくありません。

そんなのは会社だけで十分です。

 

それぞれが自然体で暮らしていれば、『家族だから』という呪いなんてなくても、自然と互いを認めあって、寄り添える。

 

それこそがわたしの望む、『個々の自由を認め、尊重できる』幸福な家族の姿です。